上田 浦里小 「浦野学校」の校名板無事 昨年南校舎に移す
2012年9月22日(土) 信濃毎日新聞
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火災で校舎など5棟を全焼した上田市浦野の浦里小学校で、幕末から明治時代にかけての政治家山岡鉄舟(1836~88年)が揮毫した同校の前身「浦野学校」の校名板が焼失を免れ、地元住民らが胸をなで下している。全焼した旧管理棟(旧校舎)の正面玄関に長年掛けられていたが、多くの人の目に触れるようにと昨年3月、今回の火災で無事だった南校舎に移されていたため、難を逃れた。
校名板は木製で縦1メートル、横5メートルほど。左右に巻物の芯のようなデザインを配し、中央に「浦野学校」と彫られている。上部には鳳凰(ほうおう)1羽と鶴2羽の豪華な彫刻も施されている。
浦野学校は1886(明治19)年に開校し、3年後の89年に浦里尋常小学校になった。浦里小卒業生で元郵便局長の渡辺惣承さん(89)=上田市浦野=によると、曽祖父のおい真一郎さんが江戸幕府の旗本で、鉄舟と知り合いだった縁があり、祖父佐太郎さんが浦野学校初代校長と一緒に東京に出向いて鉄舟に揮毫を頼んだという。校名板の左側には「正四位山岡鉄太郎」(鉄舟の通称)と記されている。
鉄舟は浦野学校が開校してから2年後に亡くなっているため、上田市教委文化振興課は開校直後に揮毫されたとみる。鉄舟の書は日本各地に多く残されているが、同課担当者は「一流の人に書いてもらったという地域の意気込みが表れている」とする。
地元では、校名板の彫刻は上沢村(現在の上田市神川)の宮大工、竹内八十吉が手掛けたと伝わっているが、はっきりしない。同課は彫刻が八十吉の作か確かめるため、昨年3月に校名板を取り外して調査。結局、作者は特定できなかった。業者が元の場所に戻そうとしたところ、浦里小側から「児童らの立ち入りを禁止している旧校舎より、みんなが見られる場所に置いてほしい」と要望。その後は南校舎2階の広間に飾っている。
渡辺さんは「浦里小のシンボルが助かったのは奇跡的。燃えてしまったと悲しんでいる卒業生も多いと思うので、無事を伝えたい」と話している。
▲転載ここまで
「浦野学校」という校名板は南校舎にあったので無事だったとの記事でした。
火災で全焼してしまった旧校舎にあったものを調査の時にはずして、そのまま南校舎でみんなに見られるように移したのが幸いしたようです。
「浦野学校」の校名板は浦里小学校の歴史を伝える大事なものなのでよかったです。
校名板の写真は以下の信毎webから見ることができます。
信濃毎日新聞‐平成24年9月22日 「浦野学校」の校名板、無事 上田・浦里小‐
http://www.shinmai.co.jp/news/20120922/KT120921SJI090002000.php
(文:mitu)
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