2013年2月3日(日) 信濃毎日新聞
蚕と糸と信州といまむかし探見 (2) という記事にのところに大屋駅が取り上げられていました。
記事には昭和初期の岡谷駅の写真が大きく掲載されています。
記事によると、国内の蚕糸業が最も盛んだったころ、1929年(昭和4)の全国の繭生産量は40万トン。生糸は70万俵あまり(1俵は60キロ)が生産され、そのうち51万俵が米国などへ輸出されたとのこと。
最初の方では最盛期の岡谷駅の様子が取り上げられています。
その次に大屋駅が取り上げられています。
大屋駅前の石碑をみなさんご存知ですか?
記事によると、信州最大の産物は生糸と蚕種、大屋は交通の要路なので、駅を開けば商人の通行や物資の輸送が便利になるといったことが書いてあるそうです。
1893年に軽井沢‐横川間の鉄路が開通し、信越線は繭や生糸輸送の大動脈となったそうで、中央線の甲府-岡谷間が開業したのは1905年。その間の十数年間は和田峠を超えて信越線に乗せて運んでいたそうです。
その時期に開設されたのが大屋駅だそうで、田中駅で積み下ろしをしていたが、和田峠に近い大屋に駅を求める声が高まって作られてとのこと。
請願には、上田・小県だけでなく、諏訪や伊那も含めて三千人ほどが名を連ねたそうです。
そのあとの記事には、信州から出た糸が横浜に渡るルートが鉄道のほか、中山道、甲州街道のほか、利根川や富士川を下る水運なども利用されていることなどが紹介されていました。
道という道はすべて絹の道だった、信州の養蚕農家の庭先から、横浜への絹の道は始まっていたとの横浜市のシルク博物館の元部長小泉勝夫さん(上田市出身)の言葉で締めくくられていました。
しなの鉄道で普段何気なく利用されている大屋駅にこのような歴史があったなんてすごいですね。
蚕都上田の関係は知れば知るほどやっぱり奥が深いと思いますね。
(文:mitu)